紅葉の高野山

朝から お照ちゃんの墓(和歌山県天野の里)に行き、周辺の清掃を行い祠を設置後ようやく一連の作業を終えることが出来た。

で、一旦帰宅後 家人と高野山へ紅葉見学に。勿論お照ちゃんの一灯を求めて奥の院御廟へ。そこで気付いたのが「貧女の一灯」と明示されていたプレートが「祈親灯」と変わっていたこと。

御廟内 向かって右より、昭和灯/1984年、白河灯/1088年、祈親灯(貧女の一灯)/1016年、昭和灯/1948年の順に並び輝いている。

※以前、netで得た情報では 

「燈明信仰の流れは2つで、一つは832年に弘法大師が行った「万燈万華会」を発端とするもの。もう一つは弘法大師に講じられた祈親(きしん)・白河の両燈です。

この祈親の燈は1118年に燈爐堂に常燈明、つまり消えずの火として灯されたものです。
高野山は994年落雷による火災で諸堂塔が焼失、以後衰退していったものを祈親上人が復興した。
上人は大師の前に一燈を献じ、もう一度生まれ代わり、対の一燈を捧げたいと祈念したのです。上人は白河上皇として生まれ、念願を遂げました。
そしてこの二人こそ、弘法大師の生まれ代わりだったとされています。その為、両燈は永遠の生命のシンボルなのです。しかし鎌倉時代に入り、信仰の意義が薄らいだ時に新たな理由づけとして「貧女の一燈、長者の万燈」か考えられました。
今では、1950年弘法大師奉賛会の発会を祈念し高松宮が点したもの1984年弘法大師千百五十年後遠忌に日中友好を念じ、中曽根総理大臣(当時)によって点じられた燈明の計4つの消えずの火が拝殿正面に灯っているのです」

御廟での表記も、netで見かけた解説の様になっていたと思うのですが、いつから「昭和灯/1984年、白河灯/1088年、祈親灯(貧女の一灯)/1016年、昭和灯/1948年」に変わったのでしょう。それとも私の勘違い?